第7話 オイル・ショック(4)

 

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みなさん、こんにちは!
”レイム・ダックおじさん”です

ローマ見物土曜日の朝、ミラノを飛行機で経ち午後からローマのまちを散策することにした。終着駅(テルミニ駅)の近くにホテルを取ったので、ここからボルゲーゼ公園、バチカン宮殿、コロッセオ、カラカラ浴場跡をまわってみようと思った。

まず、ボルゲーゼ公園へ行った。この公園は地図上でみると東西、南北それぞれ1.5kmぐらいあり、その中に美術館、動物園、博物館などがある。これら全部みることは、とうてい不可能なので、公園の中をブラブラ歩いてみた。

ライム・レッグおじさんの頭の中に京都の公園のことが浮かんできた。御所にある京都御苑の広さは、このボルゲーゼ公園を余り変わらないように思われた。そして、どちらにも松の木があって散策する人にすがすがしさあたえる。しかし、ローマと京都を見比べてみると、ローマはボルゲーゼ公園以外にも、数多く公園がありそれがまちを形づくっているようにみえる。

一方、京都のまちはまわりを山に囲まれているが、公園の数は少なく家が所狭しと密集しているのでローマに住んでいる人が京都に住むことになったとしたら、何と狭苦しい所かと思うのではなかろうか。1時間ぐらいボルゲーゼ公園を散策した後、サン・ピエトロ広場まで、余り迷わずにすんなり歩いて行くことができた。5月中旬のローマは太陽の陽射しが強く南の国へやってきたという感じを受けた。参道はサン・ピエトロ聖堂を訪れる観光客でごったかえしになっていた。観光品を売っている店には「日本語、話せます」という札がかかっており、特に「農協さん」はたくさんお土産を買ってくれる上客だということであった。

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ユリウス2世(14431513)は、教皇(在位15031513)として権力の拡大につとめる一方、芸術のパトロンとしてサン・ピエトロ大聖堂を再建し、その設計のためにブラマンテを雇った。また、ラファエロを呼び寄せ、私室を飾らせ、ミケランジェロには、システィナ礼拝堂や自分の墓碑にフラスコ画を描かせた。このように美術の贅をつくしたため、莫大な資金が必要になり、そのため免罪符が乱発され、これがルッターの宗教改革へとつながっていったと旅行案内に記されている。ユリウス2世も500年後にこの豪華絢爛たる大聖堂をみるために、東洋から観光客が押しかけてくるとは、夢にも思っていなかっただろう。こんな夢想にふけりながら、大聖堂、システィーナ礼拝堂、バチカン美術館など一通り見物した。ここにはルネッサンスの美術の粋があることを知っただけだったが、後日また訪れることを期してコロッセオへ足を向けた。途中道に迷って青年にあやしげなイタリア語で、道を尋ねと丁寧に教えてくれた(しかし、ほとんど理解できなかった)。ただ最後にa piedi(= on foot)といって、たまげた顔をしていたのが強く印象に残った。

ローマのまちは廃墟があちこちにあり、そこに猫が住んでいるのには驚いた。ここに住んでいる猫たちは野良猫で、近隣に住む人達がえさを与えているようで何か猫たちがローマのまちに溶け込んでいるように思えた。

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途中、何度か道を尋ねながらコロッセオについた時は、4時頃で日差しはだいぶ弱くなっていた。このがらんとした闘技場をみていると、後から人が近づいてきて「もしもしカメよ・・・」と日本の歌をうたって「カメオ」を買わないかというのである。だれか日本人が日本人観光客に売りつける方法として、このようなアプローチの仕方を教えたのであろうと思ったが、買う気はおこらないような品物だった。

モンタネツリ/藤沢道郎訳ローマの歴史によるとコロッセオはティトゥス皇帝(在位A.D.7981)の時に完成された大闘技場で水を満々とたたえることもできるし、砂漠やジャングル風にすることもできたという。ここで、獣と獣、人間と獣、人間と人間が死ぬまで闘うのを観衆は熱狂してみたらしい。当時、ローマの人口は百万ないし百五十万人であり、祝祭日は年間76日(これはだんだん増え、ローマが滅亡する頃には175日に達したという)あり、これらの休日を市民は演劇やスポーツにきょうじたというから、10万とか15万人を収容できるコロッセオのような闘技場が必要だったようだ。このあといったカラカラ浴場跡についても、まさしくがらんとした廃虚だった。しかし、モンタネツリの筆によると、カラカラ帝(在位A.D.211217)の時代、中産階級の人達は、正午まで働き、軽い昼食をとり、また働き、仕事が終ると、公衆浴場へ行ったそうである。この頃のローマ人程、清潔な民族は古今東西類をみないだろうとモンタネツリはいっている。公衆浴場は市内に千軒以上あり、収容人員は平均千人であり、大浴場兼娯楽センターとして機能していたらしい。

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モンタネツリの本は、廃虚にたったレイム・ダツおじさんに当時のローマ人たちを彷彿させてくれた。このような本と共に旅行する楽しさを満喫できた。

翌朝は、涼しいうちにデベレ川にかかる橋をみてまわった。橋を川沿いの道路を上流へのぼりながら一つ一つの橋の写真をとっていった。ローマ市内を流れているデベレ川の巾は、ほぼ90mであり、ここにかかっている橋はインダストリアル橋(鉄橋)、パラテチーノ橋を除いてアーチ橋であり、材質はレンガかコンクリートなどでできたものである。橋の名は、ガルバルディ、マツツィニ、ビットリオ・エヌマエル2世、ウンベルト1世、カブールなどの人名が使われている。これらの人達はいずれも19世紀後半、イタリア統一に貢献した人達である。

マツテオッティは社会党の党首でファッシストに暗殺された人で、上記の人達の名を冠した橋より新しい橋だった。レジーナ・マルグリータは女性の名のようだが、レイム・ダックおじさんにはよくわからなかった。

ファブリチオ橋は、BC62年に建設された半円アーチの古い橋であり、サンタンジェロ橋は半円アーチが4個使われ、AD137年に建設され現代でも実用に供されている有名な橋である。パラティーノ橋は、地名をとった橋であり、どこにでもみられる鋼桁の橋である。テスタチョ橋、スブリッチョ橋、シスト橋、サパイア・アオスタ橋などは、地名のように思われるが、その由来ははっきりしなかった。6km程の川沿いの道を半日かけて歩き、レイム・ダックおじさんはすっかり疲れてしまった。ローマの橋は、古いものと新しいものが渾然一体となっており、曲線美(アーチが使われている)が、よくでていると思った。 

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